火曜日はルーブルは休み、どこかやってる美術館はないかと探していたら「ロダン美術館」が出てきた。ロダンが晩年を過ごした館を美術館にしたものだと聞いていた。実はそれほど大きな期待もなく行ったのだが、行ってみて驚いた。屋敷の広さもさることながら(庭園の広さだけでも並みじゃない。なんと庭園のはじには食堂まである。)その作品数といったらいったい何百点あっただろう…壁にはかつての交友関係があったのだろうか、さりげなくゴッホやモネ、ルノワール、カリエールなどの作品が掛かっている。それだけでも驚くのにさらに別棟ではヘンリームーア展までやっている。カメラの電池が途中で切れてしまい、会場全体の様子を載せられないのが残念だ。
肝心のロダンの作品だが、正直言って自分はなんだかんだ言えるほどに詳しいとは言えない。世間一般の知識以上のものを持ち合わせてはいないのが恥ずかしながらの実情だ。しかしこんな自分であっても、こうしてこれだけまとめて作品を見せつけられると、そのエネルギーにねじ伏せられるような感覚を覚える。とくに1880年代あたりの作品は脂がのりきった時代なのだろう、どれも力強さに満ちた”動的”な作品が多い。エネルギーに任せて一気に形を結晶させたかのようなスピード感。リアルではあるが、細部を見ると決して、形に忠実という意味でのリアルではない。随所に形態の誇張が見られるのだが、それをわざとらしく感じさせないのは、その基本にある確かなデッサン力だろう。おそらく短時間でスケッチ的に作られた小品の中には、新聞のような紙を骨にしているものもあって面白かった。
見ていてひとつ感じたのは、ブロンズの作品と大理石の作品との間にかなり大きな作風の違いがあることだ。ブロンズの作品に荒々しく”動的”なものが多いのに対し、大理石の作品は打って変わって繊細な”静的”なものが多いのだ。これは、晩年になるほど大理石の作品が多くなることとも関係があるのかもしれないが、扱う素材の特性からある程度導き出されたもののようにも思える。それは1980年代に作られた「接吻」を見てもわかることだが、晩年の大理石像と比べると、かなり劇的な作品ではあるが、それでも他のブロンズ像と比べれば明らかに繊細な作品だ。晩年になると、さらに形態自体が溶け出したかのような表情を見せる。まるで、焼き物を焼くのに、シャープな形態の上に釉薬をかけてとろっとした表情が生まれるように、実際の形の上にヴェールがかかったような形態。表面があるのに実際の形はその奥にあるのだ。「La petite Fee des eaux (小さな水の精)」という作品を見ると女性の背中の部分ははっきりと触れられるほどに肌の表面が表現されている。しかしそれ以外の部分、例えば腕から手の先にかけては明らかに本来あるべき人体の輪郭より一回り太く、また甘くなっている。これはもう少し彫りこむ予定といったたぐいのものではない。まるで、写真を撮るのに被写界深度を浅くすると、ピントが合っていない部分がぼやけて見える効果、また、ソフトフォーカスで見たときに、光が拡散して膨張して見える効果に似ている。大理石の特性。作業上、取ったりつけたりの試行錯誤が許されないこと、半透明の透けるような白い質感。そのようなものと、この表現とは無関係とは思えない。ロダンはこの白い大理石に当たる光の美しさに惹かれたのではないだろうか。形を創る中でこの透けるような白い形態に当たる光が拡散して見えるその効果を取り込みたいと考えたとしても不思議ではない。これは黒い物体では成立しない効果だ。実際の表面よりも膨らませることで周囲の区間に溶け込ませる。彫刻は物質そのもの、境界をあいまいにはできない、しかしこの大理石の質感を最大限に引き出すことでロダンはそれを成し遂げようとしたのではあるまいか。レオナルドダビンチが乾性油の特性を引き出し、スフマートによってそれを成し遂げたように。
美術館の壁に何枚か掛けられていたカリエールの作品を見ながら、ロダンの大理石作品との関連性を感じるのはたぶん自分だけではないだろう。
午後は学校で人体を描く。今日のモデルは黒人の若い女性。よく笑う明るい人だ。かなりきつそうな動きのあるポーズも積極的に挑戦してくれる。生徒からのリクエストにも明るく答えるほど。これほどのいいモデルには今まであまりお目にかかったことがない。黒人を描くのは初の体験だった。なぜか背景も今日は黒、おまけに天気も曇りでアトリエも暗く、少し形は見づらいものの、暗い中に生える大きな眼の輝きがとても強く印象的に見える。やはり日本人とも白人とも少し違う。腰の位置が高いところからパンと張り出している。足も長い。肌の色は今まで描いたことがない色だが、とても深みがある。明暗の差は出にくいので量感の表現が難しそうだが、一度描いてみたいと思わされた。