前回の仕事の後、自分の模写の画像を見ながらどうにもしっくりとこないものを感じて気分が悪かった。そこそこ描けてきてはいるのだが、何かまだ足りない。本物のどっしりとした手ごたえにはまだ及ばないのだ。このまま仕上げていくこともできるのだが、何とも言えない絵描きとしてのもやもやした感じはぬぐえそうにない。この模写が単なる学術的な再現であったら手順からしてこのまま終えるべきなのだろう。しかし一方の絵描きとしての本能はそこで割り切って終えることをよしとできないでいる。いろいろ考えた揚句、もう一度仕切り直して顔の明部を不透明層からやり直すことにした。今一度、厚めの不透明層でしっかりと明部にボディーをあたえたいと考えた。実物を見ると、実際はそれほどの厚みはない。しかし確実なタッチでしっかりとした抵抗感を持っている。そこに透明層が絡むことで得も言われぬ奥行きとボリューム、色の輝きがもたらされている。言葉では表現しようがないが、まるで”品格”が違うのだ。これは今の状態からちょこちょこと修正するようなことでなんとかなるようなものではない。
とにかくまずはグレーで影の調子を整えてから、主に明部を不透明に描き起こしていく。シルバーホワイト、イエローオーカー、アイボリーブラック、乾燥性を高めるためにわずかなバーントアンバーによる暖かめのグレー。あまりハイライトを明るくし過ぎないように心がけながら描き進めていく。向かって左側の目の周辺の描き込みが足りなかったこともあり、絵の具層の厚みを見ながら描き込んだ。作品自体が少々高めのところにあるので顔の細部を見ることが難しいのだが、昨日接近して撮っておいた写真も参考にする。私より背の高いKay君が、その目の下まぶたのハイライト部分の表現がスッと絵の具を引いただけでなくその上から点で光のしずくのような表現をしていることを指摘してくれる。なるほど確かに。ありがたい助言。激しいタッチと絵の具の盛り上げでダイナミックな表現をする一方、ある部分ではこれほどの繊細な仕事をしている。表現の幅の広さにあらためて驚きを覚える。
これで乾いた上からまたグレーズをしていくことになる。今度はうまくいくだろうか。明るさを抑えたつもりだが、出来上がってみると、思ったよりまだ少し明るいようにも思える。また、グレーズの段階で多少の黒は必要になるかもしれない。
帰り際、Kay君からの新情報として、休みのはずの明日、木曜日、どうやら描けることになったらしい。明日だけのことか、これからずっとのことかはよくわからない。明日できる代わりに土曜がだめになるのかも…。明日できるのはうれしいが、乾きの関係上、明日は大したことはできそうにないなあ。…ところでKay君、ついにブラックオイルの自作に成功したらしい。明日見せてくれるらしいが、本人いわく、かなり真っ黒になったらしい。相当乾燥が早い油になったんだろう。うまい使い方を教えてあげなくては。
実は気になっていることがあった。先週の土曜日にルーブルに来る際の事、メトロを降りて美術館の地下に直接入る通路で毎日のようにチェロを演奏している女性がいるのだが、その日、いつものように通り過ぎようとすると、なぜかその人がこちらの通路を塞ぐようにして、「ムッシュー!気をつけて!」と私の鞄のほうを指さすのだ。何事かと身構えたのだが、その人はすぐに私の後ろに気をとられたようで、特に何もなく、そのまま通り過ぎた。ほんの一瞬の出来事。その時はフランス語だったか英語だったか、聞いても瞬間的によくわからなかったのだが、もしかして、その人は、私の後ろにスリらしき人が近づいているのを見つけて知らせてくれたのではないか、そう言えば、後ろから来た人は、そのチェロの人の荷物に何か自分の荷物をぶつけるような感じがあったような…。だとすると、私に危険を知らせようとしたその人が逆に被害者になった可能性まで考えられる。そう思うと居ても立っても居られない気持になった。通り過ぎた後、特に騒ぎがあったような声や音は聞こえなかったものの…。結局その日、帰りにはその人はいなかった。そして今日、帰り道にその人を見つけて思い切って尋ねてみた。「私を覚えていますか?」と聞いてもすぐにはピンとこなかったようだが、土曜の朝あったことを話すとすぐに思い出してくれた。やはり思った通りだった。あの日こちらを見ていて私の後ろにあやしげな人がバックを物色しているのが目に入り、とっさに知らせてくれたらしい。画材の入った大きなバックをぶら下げているので目立ったのか…。あなたは大丈夫でしたか?と聞くと、大丈夫ですとにこやかに答えてくれたのでほっとした。いつも演奏しているときは真剣な顔なので怖い人だったらどうしようかと思っていたが、そうして話してみると笑顔の優しい人だった。またしてもここに恩人が一人できたようだ。ここに来て半年、ついに”パリ”に狙われる。しかし助けてくれたのもまた”パリ”。