オランダ(その3)

朝9時半ごろ宿を出てアムステルダム中央駅に向かう。そこからデン・ハーグまでは電車で1時間程度だ。チケットは自動販売機で買う方が安いというので試してみたが、持っているカードはどうやら使えないらしい。仕方なく窓口で買うことにする。こちらではほとんどの人が英語をよく話すようだ。駅員からスーパーのレジのおばさんまで…。なのでフランスよりは助かると思いきや、みんなあまりにもぺらぺらと早く話すので聞いているこちらがついていけない。英語もろくにできないこちらとしては、むしろフランス人の話す英語のほうがゆっくりしていてわかりやすいくらい。「フランス人はたとえ知っていたとしても英語で話そうとしない。」…などと言うが、それは英語が話せる人達の言い分。自分達のように英語もフランス語もどうにもならないような人間に対しては、みな諦めてむこうのほうから「英語はわかりますか?」と話しかけてくるのだ。…そんなわけで苦労しながらチケットを買い、列車に乗りこみ、なんとか無事に目的地にたどり着く。美術館に向かう道の途中に公園があり、ガチョウの群れが日向ぼっこをしていた。それを見逃すはずがないのが子供たちだ。早く先を急ぎたいのにお菓子を出せ。えさをやりたい。と、もう一歩も動かない。どこの国に行こうとやることは一緒。今までに何カ国のハトやハクチョウにえさを捧げてきたことか。諦めて好きなようにさせた。するとこのガチョウ達いつも同じように貰って食べているのだろう、突然すごい勢いで寄ってきて、子供たちの手から直接食べ始める。大人の目から見ても大した迫力なのだが、3歳児からしてみれば、首を伸ばしたガチョウなど、ほとんど自分と同じ背の高さ。餌をくれ餌をくれと目をひんむいて迫ってくるガチョウ達にすっかりビビってしまい、「もう行こう、もう行こうと」あっという間の退散となった。とはいえ、なんだかんだと様々な障害に阻まれ、気付くとそろそろ12時が近かった。腹も減ったというので先に食事をとることに。道の途中にCaféがあったので入ることにする。子供達がハンバーガーを食べたいというので人数分注文するが店員は4人分じゃ多すぎる。2人分で充分だという。言われるままにそうしたが、実際それでも充分だった。…そういえばこちらに来て気付いたことのもう一つ、フランスやイタリアではCaféの店員はほとんど男性が主役。威勢のいい店員達が愛想を振りまいたりしながら店に雰囲気を作っている。フォークやらスプーンなどほとんど投げる勢いだ。しかしオランダではどうやら日本と同じくどちらかと言えば女性が主役を務めているらしい。もうひとつ、こちらでびっくりするのは子供に見せられないような何やらあやしいものを売っている店が街のあちこちに、しかも堂々と存在すること。普通の商店街の真ん中に当たり前のようにあるのだ。食事をしたCaféのまさに隣がそのての店だった。外のテーブルで食べていて、気付くと目の前に…。そんな中、中年男性が目の前で、これまた当たり前のようにゆっくり、そして熱心にウィンドーショッピングしている姿に、何ともお国柄の違いを感じるのだった。

マウリッツハイス美術館は驚くほどに小さな美術館だった。しかしレンブラント、フェルメールのコレクションは素晴らしい。作品管理もしっかりしているのだろう、ルーブルのような黄ばんだレンブラントはそこにはなかった。修復データが本になって出版されている。1冊買った。

「トゥルプ博士の解剖学講義」。このキャンバスに描かれた作品は、実際に思っていたよりはずっと薄塗りの作品だった。「ユダヤの花嫁」などとは対照的。比較的フラットな絵の具使いの中で緻密な描き込みがなされている。しかしそれは筆の動きが臆病だということを意味しない。例えば右手前に描かれた開かれた本。部分的によく見ると、そのページの表現は暗い色で塗った絵の具が乾かないうちに筆の柄のとがった部分でただ勢いよくひっかいて下地の明るさを出しただけだ。引っかいた部分にのぞくのは、主にキャンバス画に施された下地、いわゆるダブルグラウンドの上層で用いられたグレー。

中学生の頃初めて画集でみていったいどうやったらこんな絵が描けるんだろうと思ってみていた若き日のレンブラントの「自画像」。肌の明部の絵肌がそのまま人間の肌のきめになりきってしまっているような表現、暗部に移行しながら溶けていくような輪郭。いまだにこれをやれと言われてもできるようなものではない。

「スザンナ」。パネルの上に描かれたこの作品は白亜地の上に施された茶系のインプリマトゥーラの明るさを部分的に透かして見せながら、暗部には暗いグレーを自在に使って大胆なマチエールの凹凸を見せている。下層描きでの自由な筆さばきが非常によく観察できる作品。

フェルメールの「デルフト風景」は、今回初めて実物を目の前にした。思った以上に大きな作品。空の滑らかな表現に対し手前の岸には非常に筆跡のしっかりした厚塗りのパート、人物の衣服の白には白そのものがぽってりと盛り上げられている。対岸の表現はほとんどすべて点描で描かれていると言っていいほどに執拗に絵の具の点が置かれている。画集などの縮小された画面ではわかりにくい部分だ。これだけ部分部分で違った描き方をしていながら全体としては完全に一つの深い空間としての強さをもっている。理屈を超えて美しい絵だ。もちろん「青いターバンの少女」も美しい作品だが今回はこのデルフトの風景に圧倒された。

 

美術館を出て近くの停留所からトラムに乗り、そのデルフトに向かう。トラムで約30分ほどの距離。途中オランダのごく当たり前の田舎の住宅地をのんびりしたペースで抜けていく。やはりオランダは運河の国、いたるところ運河が通っている。デルフトの街は徒歩で半日もあれば充分回れるほどの小さな町だが観光地として訪れる人は多く、街の中心はかなり込み合っていた。狭い運河が街の中をめぐっており、先月行ってきたばかりのベネツィアを思い起こさせるが、Caféの席を運河に浮かべたボートの上に設けているというような利用法以外、実際この運河を交通手段として積極的に活用しているふうではなく、ずっと静かなたたずまいと言える。代わりに運河にはところどころ人の手により花が浮かべられていたり、また自然に繁茂したと思われる睡蓮が広がり可憐な花を咲かせていた。

運河沿いにはいくつか骨董屋の露店が出ていた。土曜日にはその一帯に露店が立ち並び、賑わうらしい。街の象徴ともいえる旧教会と新教会。旧教会は見るからにはっきりと傾いている。上部だけバランスをとるようにまっすぐに修正されているところを見ると、恐らく建築中にすでに傾いていたのだろう。新教会前は広場になっていて、ちょうど市が出て賑わっていた。周囲にはカフェやレストラン、またデルフト焼の店が立ち並ぶ。広さと言い、雰囲気といい、ちょうどローマのナボナ広場みたいだと妻が言う。屋台で売られているエビや魚のフライとオランダの名物Haring(ニシンの塩漬け…玉ねぎのみじん切りをかけて生で食べる。)を買って食べた。Haringはまるまる1匹、脂の乗ったやつをパクつくのだが、刺身文化の日本人にはありがたい。特にアジやサンマやブリの刺身が好きなタイプにはたまらない味。しばらく人ごみを離れて静かな街並みを散策し、ふと時計を見るともう5時を回っていた。ここにはフェルメールが「デルフト風景」を描いたとされる場所もあるらしいのだが、そこを探し当てるだけの時間は残っていなかった。駅に向かい、帰りのチケットを買って電車を待つ。そろそろ電車が来ようかという時、突然娘が「カッカー!」と言いだす。フランス語の「うんち」の意味。うそだろう…。電車は来てしまう。電車内にトイレはあったろうか。来るときの車内では見かけなかった気がする。乗ってしまってなかったらえらいことだ。外から車内をのぞき込むが見当たらない。乗るのを諦めた瞬間、閉まりゆくドアの向こうにWCのマークを発見するがすでに手遅れだった。仕方なく駅の有料トイレに入ることに。ところが2つあるトイレはどちらも使用中だった。しばらく待つが一向に出てくる気配がない。娘は万が一のためにおむつをはかせている。こうなったら最後の手段。このままおむつにやってしまえ!ひとけのない駅構内のはじっこに行き、大丈夫だからこのままおむつにしなさいと言う。しかしさすがにおむつ離れしてずいぶんたつ娘、気持ち悪くてできないようだ。しばらく踏ん張ってみた揚句、やっぱり駄目だとまた元の有料トイレに。幸い今度は開いていた。出てきた時の娘のさっぱりとした顔。しかし対照的に、一緒に入った妻と息子は顔が浮かない。むちゃくちゃ汚いトイレだったそうで、息子はしたいおしっこも引っ込んでしまったというし、妻は思い出すだけで吐きたくなると言う。そんなバタバタのおかげで帰りの電車は30分以上遅くなってしまった。すっかりスッキリとりした様子の娘と、すっかりゲンナリとした母と兄、すっかるくたびれ果てた父親をのせて列車は再びアムステルダムに向かった。

お後がよろしいようで。

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