昨日運送屋が作品を持っていった。とにかくの仕上げ。前の日は結局朝の5時まで描いた。朝起きて改めてアトリエを見回すとなんだかほとんどゴミ屋敷のようだ。絵具練りの実験道具、画溶液づくりのサンプル、塗布実験の手板、確定申告の書類…、いろんなやりかけが散乱している。本人しか把握してないので、もし家族が掃除でもしたらもう何が何だか分からなくなってしまう。なので誰かに頼むことすらできない。これから片付けなきゃいけないと思うと途方に暮れてしまい結局は何もできなくなる…。
そろそろ今回の作品画像もWorksのほうに載せようと思うが、今日のところは部分写真とアトリエ風景を載せるにとどめておく。
今回の作品は前にも書いたとおり、技法的に大きな変化があった。具体的には使用するメディウムを変えたということだが、それに伴い使う絵具も今まであまり使用することのなかったクリムソンレーキ、ウルトラマリンブルー、イタリアンピンクなどのいわゆる透明色の使用頻度が以前と比較してずっと高くなった。それらの変化はこの先、表現そのものにもおそらく変化を与えることになるだろう。画像を見てもある程度分かるかと思うが今回の作品ではこれまでのいわゆる「細密描写」をそれほどしていない。ことに暗部の表現には不透明な下層の描き込みなしにじかに透明色の”一見”フラットに見える塗りだけで仕上げた部分がある。これは1年間のパリでの研修から得たものともいえる。空間を「説明する」のではなく絵具に「置き換える」作業とでもいうのだろうか。油絵の具の持つ透明性と可塑性を充分に利用しながら、対象のどっしりとした深みのある存在を描きだしたかった。神経質な細密描写、仕上げの滑らかな見目麗しいだけの絵を描くのとは違ったところの表現。そんな思いを込めて制作したつもりだが、今回、それがどの程度達成させられたかについては、まだまだ自分自身でも客観的に見ることはできない。
いつものことだが、搬入直後というのはやっと終えたという何とも言えない解放感とともにいったいあれでよかったのかという重い気持ちの入り混じった妙な気分になるものだ。これが展覧会初日になると、開放感のほうはすっかり失せてしまうので、後者の重いほうだけが残ることになる。アトリエの中では毎日手を入れるごとに同じ自分の作品が名作に見えたり愚作に見えたり一喜一憂しながら突破口を見つける日々だが、それらは自分と作品との間の対話であってまだまだ突き放して客観的に見られる状態にはない。展覧会初日というのは初めて自分の描いた作品をまるで人の絵を見るように客観的に見ることになる瞬間だ。そしてそれはほとんどの場合、満足に終わることはない。十中八九、「こんなはずじゃなかったのに…。」「もうちっといい絵のはずだったんだが…。」…と、打ちのめされる結果となる。だから初日は本当は誰にも会いたくはないのだが、パーテイ―前の会場は人でごった返している。自分の絵を見たいようで、見るのが怖いようで、でも見なきゃいけないようで…、恐る恐る遠くからこっそり見て、人がいない間に近付いて見、何がいけないんだろう、どうすればいいんだろう…、一人で静かに”反省会”が始まる。このつらい”反省”の時間を乗り越えて、なんとか帰る時までに「次回はもっといい絵を描くぞ!」と、次へのエネルギーに変えるというのが一種の自分なりの通過儀礼。なんだか学生のやることみたいだが、こればかりはいくら年と回数を重ねても変わることがない。
ともあれ一区切りついた。普段ならここで一息つくところだが、今年はもう次の締め切りが目の前に近付いている。すぐに切り替えてすでに取りかかっている50号をやっつけなければ。
搬入の車が出て行った後、ふと見ると庭の梅の木に花がちらほら咲き始めていた。