その年齢でしかできないこと。

  12日に迫った「DOMANI明日展」今日は会場で展示作業があった。展示作業は3日間に分けて行うらしく、今日作業に来ていた作家は5人程度、それも広い会場に分散しているので帰る直前までそれぞれ顔を合わせる間もなかった。

 私のような平面作品の場合、作品はすでに額装されていることもあって、具体的な作業そのものは、ほとんど業者の人たちがすべてやってくれることになる。こちらのやるべきことは、作品の配置、高さ、照明についてなど、具体的に指示することだった。プロがやってくれるので楽と言えば楽な作業だが、こういう場所での経験をそれほど積んでいない者にとっては意外に具体的なイメージを持って指示するのは難しい。それでも何とか4時過ぎには1番乗りで作業を終えることができた。ちらっとほかの人たちの展示の様子を見て回った。北欧の低い太陽に輝く森に分け入り足元の高さから撮った写真を、わざわざ低めに展示して見せる人、コンテナ何倍分かの靴にひたすら糸を結んでいる人たち、学生とともに、壁面いっぱいに気の遠くなるような細かいパーツの鏡をはっている人、窯のサイズギリギリの大きさの焼き物のパーツを現場で組み立てている人、…とにかく各人やり方も内容もまったくばらばらで、しかし少なくともそれぞれのやり方で半端じゃなくやりきっているのは全身に伝わってくる。普段似たような写実系の作品ばかりと並べている自分にとっては今回はとても刺激的で楽しみな展覧会になりそうだ。

 IMG_1781.jpgIMG_1768.jpg今回の自分自身の展示についてはちょっと前にも書いたが、古くは25年ほど前に描いた作品から今に至る自分にとって思い入れの深い作品を集めた小規模な回顧展的展示となる。

実はそれに向けて、古い作品のメンテナンスを兼ねてしばらく2枚の作品がアトリエに戻ってきていた。埃の状態などを確認し、アルコールで消毒し、保護のためにニスを塗って画面のつやを取り戻した。

 久しぶりに古い絵を目にすると、いい面、悪い面を含め、以前と現在の自身の絵の違いにあらためて気づいて面白い。ちょっとだけそれについて書いてみようか。

 

IMG_1772.jpgIMG_1775.jpgIMG_1769.jpgIMG_1778.jpg20年以上前の2作品を見ると、とにかく細かく描くことに全力を注いでいる。例えば風景の中の遠景にある樹は、枝の11本、葉の11枚を、日の当たるところから蔭の中まで11つ全て描いている。地面の土はそこにある石ころ11つをレリーフ状に盛り上げ、乾燥でひび割れた土のひびも実際に絵の具の凹凸で表している。人物のひげ11本、上着のファスナーのディテール、とにかくすべて説明しきろうとしている。しかし枝の11本の丸みは表現していてもそれぞれの枝の前後関係については表現できてはいない。人物や背景の細部の質感まで表現していても、それらの関係性は描けてはいない。当時はまだ絵具の透明性を生かして描くことができなかった。基本的に色はパレット上で混色することによって作り出していた。そのような方法で空間を描き表わそうとするとき、とにかくどこまでも説明し切るという方法は、自分にとっては必然的な解決法だったともいえる。

これまでの作品を振り返ってみると、技法的な大きな転換期が2回ある。1回目は1997年から1998年あたり。これは武蔵野美術大学の非常勤講師になったころ、2回目は2011年。フランス滞在の後だ。1997年以前の作品は、基本的にパレット上で混色した不透明な絵の具を並列的に並べて描く方法。(ただし全く不透明かと言えばそうではない。グレーズも使ってはいたが、ただしそれは積極的な使用というよりは補助的なものだった。)そのころのメディウムには樹脂分がかなり入っていた。

武蔵野美術大学の非常勤になった当時、斎藤教授はロンドン・ナショナルギャラリーの資料を基にティツィアーノ、レンブラントのメディウムの研究を進めていた。そこであらためて再認識されたのは乾性油の重要性と。油絵の具の特性である可塑死と透明性をいかにして組み合わせていくかということだった。そんな環境の中、実際に教える上での必要性から実践してみることでおのずと自身の技法が変わっていったのがこの時期だった。ここでの変化は材料的に言えば樹脂分を除いた乾性油主体のメディウムの使用、技法的に言えば絵具の可塑性を生かした下層描きと透明性を生かした彩色層という2工程に分けたことだ。

2011年の渡仏後の変化は下層に施した地色の積極的な利用ということになるかもしれない。そのことでグレーズの使用に、より積極性が増すことになり、また、これまで下層描き、彩色層とはっきり分けて考えていたものが、一連の流れの中でより有機的に作用するようになった。メディウムは乾性油に卵黄を加えたものを使用するようになったが、その詳細については今年の春、武蔵野美術大学から出版される研究紀要に論文として掲載されることになっている。

IMG_1783-2.jpgこれらの技法的な変化は人間の肌の表現を見ると、わかりやすく表れている。画像ではその違いを実感しづらいのだが…。初めのころの作品の肌は基本的にパレット上で混ぜ合わされた不透明色のグラデーションなので、簡単に言えば明暗は濃い肌色、薄い肌色として見えてくる。混色による肌色はどうしてもにごりやすいため、そのころの人の肌は少々土色っぽい。

2番目の時期の作品では主に下層は全て不透明なグリザイユで描img069-2.jpgき、その上に透明から半透明のグレーズで暖色からグレートーンの色幅を重層的に出していくため、もう少し肌らしい色の深みが出てきている。ピンク色に輝く肌に透けるように見える静脈の緑色、といった表現はこの方法によって達成することが容易になる。

小尾修 窓20s-2.jpg3番目、現在の方法では影の中にグレー層が挟まることなく下層の地色である褐色のインプリマトウーラが生きてくるため、より暗部の透明感が増し、色の表現幅が増えている。

こういうとなんだか、いいことばかりのようにも思えるが、このように技法を変えることで逆に失われるものもある。例えば絵具の透明感を生かせるようになった分、空間の奥行きがより表現しやすくなった半面、グレーズによっては細部の書き込みを進めることはむずかしく、暗部に関する細密描写は必然的に行われなくなっている。(もちろんそれをむしろ利用して透明感のある暗部、物質間を伴う不透明な明部の対比の中から対象の存在を浮かび上がらせようという方向へ向かうのだが。)とにかく技法の変化とともに表現そのものが変化していくさまが今更ながら見てとれて、自分のことながら面白い。おそらく自分自身の中でも、物の質感、ディテールといったものから、次第に空間、光、存在自体に関心が移行していっているのだろう。

25年前の作品。ある意味では今から見ると未熟な部分もあるのだが、あらためて見ると、今、これをやれるかと言われればとてもできそうにないこともやっている。それはその年齢の時にしかできないものであり、20代でしか持ちえない感性と言えるのかもしれない。何であれ、精いっぱい出し切ってきた作品は何歳に描いたものであっても思い入れを持ち続けられるものなんだろう。

さて、私はこれから40代後半じゃなきゃ絶対描けない絵というものを描いていきましょうか。「こら、20代の俺!お前にこんな絵、描けないだろう!」自信を持ってそう言える絵を描きたいもんだ。せいぜい精一杯やりますよ。

そんな展覧会、ぜひご覧ください。

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