そんないきさつがあった末、我々は最初の会合として藤林先生の声掛けにより、あかね画廊のオーナーと会うことになった。…もう、今から20年以上前の話…。最初のメンバーが何人だったか、今となってははっきり思い出すことはできないが、たぶん10人程度はいただろうか…。ほとんどのメンバーは銀座の画廊みたいなところでの発表の経験もなく、まったく場違いな気分を味わいながらの画廊訪問だった。当時のオーナー内田悦夫氏は1965年に並木通りに画廊を開き、中堅・若手作家の発掘・育成に努めてきたという、そんな中で深いつながりのあったのが藤林教授だった。
あかね画廊側の提案は、私の記憶では確かこんな風だった。基本的に展覧会は画廊の完全企画、1回限りの企画ではなく継続的に育てるつもりでやっていくつもりである。当面は5年間(だったかな???年数ははっきり覚えていない。)を目標に、まずは2,3人でのグループ展から始め、様子を見ながら力のついた人は個展に持っていきたい。…そんな趣旨だったと思う。ちょうどバブルがはじけた直後、世の中すべてが縮小ムード一色だった時代、しかも写実がブーム化している今とは全い、全く注目されていなかった流れの中で、これは全く型破りと言っていい条件ではなかったかと思う。もちろん当時このような画廊の企画展がなかったかと言えばスルガ台画廊やみゆき画廊など、いくつか新人発掘的な企画展を行っていた画廊はあったと思う。しかしこのあかね画廊の「スカラベ展」ほどの大規模な全面支援をしていた画廊を私は他に知らない。(残念ながら昨今の状況の中、現在では完全企画の形はとることができなくなったようだが、現在でも「第2期スカラベ展」としてその精神は継承され続けている。)
このスカラベ展(この時点ではまだスカラベ展の名称はできていない。)の要請にあたっては、次男である内田眞樹氏が正式に画廊の後を継ぐ決心を固めたことが大きな要因の一つとなったらしい。新しい画廊の門出に際し、かつての活気ある画廊の精神に立ち返ろうという、こだわりを持つオーナーの意思表示が、何もわからない”ひよっこ”の我々にもひしひしと伝わるようだった。会合の後、近所の中華料理屋で全員が晩御飯をごちそうになってその日は解散となったが、みんな一様に「画廊のオーナーってすごいんだなあ…。」と半分放心状態で家路についたことを覚えている。
メンバーたちは次々に展覧会に出品した。その中から順次、個展につなげる者もあらわれる。やがてそのほか、コンクールや公募展などの受賞をきっかけに一人、また一人とメンバーは独り立ちを始め、そしてそのあとに新たなメンバーが加わる。そのようにしてこのスカラベ展は新陳代謝を繰り返してきた。あかね画廊のホームページで眞樹氏はあかね画廊のことを「『ホップ・ステップ・ジャンプ』の『ホップ部門』」だと表現し、そして「更なる高みを目指そうとされる作家さんを抱え込むという行為は あかね画廊では一切致しません。」と言う。http://www.akane.com/_about.html貸画廊を基本とする画廊として、いずれ作家が巣立っていくことは避けられないこととはいえ、そのことをあっけらかんと言ってのけるのは実に内田さんらしい。つまり育てはするが、利益は求めませんと言っているようなものなんだから。
結局私はグループ展から始まり2度の2人展、合計3回ほど(だったかな?)展覧会をした後、スカラベを卒業した。確かその中で実際に作品が売れたことはなかったように思う。つまり私はまさに「あかね」に育てられ、そして「あかね」に何の利益ももたらさなかった典型的な絵描きの一人というわけだ。自分としては、自分自身がこの世界でしっかり作家活動を続けていくことこそ、唯一あかね画廊に恩返しできる方法なのか、などと自分に都合のいい言い訳をしているのだが…。でも同じようにそんなちょっと負い目の気持ちを持ちながら「あかね画廊」を大事に思う絵描き達は多いのではないだろうか。今回の「それぞれのスカラベ展―藤林 叡三へのオマージュ―」のメンバーが喜んで参加を決めたのもそんな気持ちの表れではないかと私自身は勝手に思っている。
先日眞樹さんに確認したところ、最終的にスカラベのメンバーは合計36人、11年間で58回の展覧会が開かれたということだ。残念ながらそのすべてが今でも作家活動を続けているわけではない。しかしパッと頭に浮かぶだけでも10人以上、おそらく15から20人くらいは今も一線で作家活動を続けている。”打率5割以上”、これは相当な高打率と言っていいだろう。現在のオーナー眞樹さんは年齢的にはメンバーの最年長である松村繁さんと同世代、比較的我々と近い年齢ということもあり、我々にとってはちょっとした兄貴的な存在でもある。もう何年前のことになるだろう、結婚が決まったとの知らせを受けた際には、その人望のためなのか、はたまた「なんで”あの” 眞樹さんがあんな年下の美人を捕まえたんだ??」という好奇心のためなのか、結婚披露パーティーにはぞろぞろと大勢のスカラベメンバーたちが集合したものだ。ちなみにそのパーティーの席で、突然司会のSさんからマイクを渡された私は、スピーチの準備もないまま何を言っていいのかわからず、並み居る仲間たちや美術関係者たちを前に「たぶんこの中で僕が一番絵がうまいと思います。」などと宣言して場内の大ひんしゅくを買ったという大変”微笑ましい”思い出が残っている。
最後にこの「スカラベ展」という展覧会名についてだが、藤林教授が名付け親だということ、その命名の由来などについては案内状にも書き記されている周知の事実。しかしその命名の経緯について知る人は少ないだろう。あんまりばかばかしいのでここで書いてもしょうがない気もするのだが、本当は展覧会名は発起人となった我々出品者たちに任せるというのが当初の藤林先生の意向だった。そこでまたしても国分寺の”でんえん”に集まったメンバーたちだったが、頭数はあっても文学的才能のある人員が皆無の”絵描きバカ”たちのこと、いくら時間をかけても、どう頭をひねっても、正直言ってろくな名前が出てこない。仕方なくいくつか上がったものを持って先生のところに提出したが、それを観てすっかり呆れてしまった藤林教授、結局先生本人が名づけることになったというわけ。結果的に、それで本当によかった。そんなありがたく意味深い名前にもかかわらず、当時のおバカな私たちは、「へー?スカラベってフンコロガシのことなのなの?ヘヘヘ…」なんてやってたんだから、今更ながらそのころの先生の苦労をお察しいたします…。
…おあとがよろしいようで。