今六本木の森アーツセンターギャラリーで開催中の展覧会「フェルメールとレンブラント:17世紀オランダ黄金時代の巨匠たち展」。ニューヨーク・メトロポリタン美術館、ロンドン・ナショナルギャラリー、アムステルダム国立美術館から集められたレンブラント、フェルメールとその周辺画家たちの作品が展示されている。今回たまたまその展覧会の開館前の時間に招待され、ほぼ”独占状態”での鑑賞が許された。ヨーロッパ滞在中にゆったりした環境でいやというほど古典絵画を鑑賞して来た反動というか、すし詰め状態の日本の展覧会に行く気力がすっかり失せて、しばらくこうした展覧会から遠のいていたのだが、今回、思いがけずじっくり作品が観られること、そして何より私にとって最も興味のある17世紀オランダ絵画ということで、久々にウキウキする気持ちで展覧会に向かった。もちろん今回の目的は1点のフェルメールと2点のレンブラント作品。
年代のずれはあるものの、同時代に生きたレンブラントとフェルメールは共に非常に美しい光を描きながらも、その表現においてはかなり対照的と言っていい作家だといえる。多作と寡作、ドラマチックな構成法と計算しつくされた構成法…。
以前アムステルダムを訪れた時、レンブラントが使っていたアトリエを訪れたことがある。http://www.osamu-obi.com/blog/2011/08/post-121.html
闇の中に照らし出されたようなあの独特の光はどのような環境から生まれたのだろう。薄暗い室内に高い小さな窓から差し込む光…、そんな想像と共に訪れたアトリエは意外にも明るく、むしろフェルメールの描く室内の雰囲気に近いと感じた。客観性という意味ではフェルメールのほうがよりリアルを追求した作家だということを実感したのを覚えている。しかしだからと言ってレンブラントの光が現実離れしたものだったとは思わない。それを実感したのは街を歩いていた時だった。なんだか外から見る、通りの店の中が暗いのだ。夕食に入った食堂。一見暗いのでやっていないかと思いきや、立派に営業中。たいして明かりもない店内にろうそくの光で食事をしている。その前から気づいていたのだが、東洋人と西洋人では目の見え方が違うようだ。西
洋人は我々に比べ、より暗さに強い目を持っている。夏に多くの西洋人がサングラスをかけるのは、単にファッションではなく実用品なのだ。…そんな記憶をよみがえらせながら会場を巡る。
今回展示されているフェルメールの作品はメトロポリタン美術館所蔵の「水差しを持つ女.」。作品の持つ物語性や寓意性についてはほかの人に任せるとして、絵筆を持つ絵描きの視点から見てみる。修復を経た作品はかつて学生のころ画集で観た作品とは打って変わって鮮やかな色彩を見せている。しかしパンフレットなど印刷物上の色
は実際よりかなり彩度が高く出ているようで、実際はもう少し落ち着いた色をしている。表面の状態は初期の風景画や「ミルクを注ぐ女」にみられるような執拗に塗り込まれた厚い絵の具層から,晩年のゆるゆると一筆書きで描いたような絵の具使いの中間に位置するような薄い
絵の具層でありながらしっかりとした描き込まれたマチエールを示している。薄い絵の具層とは言っても実際には何度か構図自体に変更が加えられているので、下の色を被覆するくらいの厚みは持っているのだが。フェルメールの作品は、柔らかで温かい光の中の一見穏やかな雰囲気でありながらも、ただ甘くなるのではなく、その構成によって一種ピンと張り詰めた緊張感をも持っている。…ほかのどんな画家もやらないような方法で…。あまりにさりげなくやるので見過ごしてしまうような部分かもしれないが、彼の作品の中にはいくつもの「ぎりぎり」と「ぴったり」が仕組まれている。そしてそれは普通絵を描く者ならあえて避けてしまう部分だ。例えば頭の後ろに突き刺すような位置で寸止めされた地図の青い軸の先端、水差しを持つ手の甲と背後の椅子とのわずかな隙間、また、水差しを持つ腕の内側の線は水差しの口の曲線とぴたりと重なり、洗面器の右
端は木箱の側面と見事に一点で接する。実際には途中まで描かれ結果的に覆い隠されることになった左手前の椅子の先端(今も左下に透けて見えている)の位置が女の右手の袖の先ぎりぎりだということを見ても、これらが偶然ではなく意図的に仕組まれていることがわかる。面白いのはこれらの「ぎりぎり」と「ぴったり」は水差しをもつ女の腕から手の周辺に集中しているということ。つまりこれは窓から差し込むの光の流れに従って窓にかけられた右手からゆったりと肩を通り曲線を描くようにしながら最終的に左手の水差しへと見る者の視線を導くための仕組みと言っていい。一般的には言えば、例えば水差しの口の曲線と腕の曲線を一致させてしまえば互いが一体化してしまい区別がつけられなくなるために、水差しの存在を際立たせようとするならあえてそこは外すだろうし、水差しを握る手を見せたいならその横には余計なものを描かない方が存在感を出しやすい。しかし彼はあえて水差しと手を一塊の形としてとらえ、そのわきに椅子の先端をぎりぎりに配してそこに生じるわずかな隙間の緊張感を作ることによって視線を導こうとした。右腕の周辺の様子を目を細めてみると、光に照らされた輝く腕をシルエット状の暗い水差し、衣服の青、そして影の中に沈み込んだ指の暗さが
取り囲み、その外側をぎりぎりの緊張感を持った壁の明るさが、さらにその外側を椅子の暗い色面そしてその中に椅子にうたれた鋲の輝く3つの点…明、暗、明、暗が市松模様のように画面の他のどこよりも激しいリズムを刻んでいるのがわかる。つまり彼は物のボリューム感によって視線を導く以外の方法、人物、水差し、椅子、といった”図”と背景としての”地”とを全く等価なものとして平面
上で組み立てることによって観る者の視線を導くという方法を意識的に選んでいる。それが論理的な意識なのか感覚的な意識なのかは別にして。「平面上にいかに3次元空間を作り出すか」を追求することから始まった西洋絵画の中にあって、フェルメールはすでに「絵画は平面である。」ということを積極的に意識している。
…あれれ、フェルメールとレンブラントについて書くつもりがレンブラントに行きつく前にすでにこんなに長くなってしまった。長すぎるので、今日はここまでにしておこうか。
続きは次にでも…。気が向いたらですけど。
展覧会は3月31日まで。興味を持たれた方はぜひ実物をご覧ください。
2016-01-26
流石は「枕石漱流ならぬ枕流漱石」底(ち・的ー流)なる「フェルメール絵画世界逍遥遊エクリチュール」と観じ入り深く感銘を受け申しました。学者や評論家諸氏による「文切り形の枕石漱流」底なるレクチャー文とはフタ味もミ味も別腹で御座り申した。矢張り、小尾氏の如き画工には、その「峻烈精細なる筆先の眼目」流のエクリこそが似合いまする。そんな眼目でのレンブラント散歩エクリも期待いたしております。